レコメンド文化の中で、違う世界を見て暮らす私たち

SNSを開く。
ニュースアプリをなぞる。
YouTubeを眺める。

そこには、いつも「自分向け」に整えられた世界が並んでいる。

興味がありそうな話題。
過去に読んだ記事の延長線にある論調。
以前に見た動画と似た雰囲気のもの。

私の知りたい情報は、わざわざ探さなくても、
スマホを開けばそこに置いてある。

便利だと思う。
むしろ、ありがたいと感じる瞬間のほうが多い。

けれど、ふと想像することがある。

電車で横に立つ学生や、
カフェで隣り合うサラリーマンの画面には、
きっと、まったく別の風景が広がっているのだろう。

同じ時代を生きているはずなのに、
私たちは、同じ景色を見ていないのかもしれない。

友人との会話で噛み合わないニュース。
「それ、知らないな」と言われる話題。
逆に、自分だけが初めて聞いたような出来事。

かつては、もう少し共通の話題があった気がする。
テレビのニュース。新聞の見出し。
翌日の職場や学校で、自然と共有されていた“基準線”。

だが、いまは少し違う。

世界は広がったはずなのに、
私たちの周囲には、
それぞれ別の風景が用意されている。

その「少しの違い」は、
趣向の違いだけではない

動画サイトも、ニュースアプリも、
SNSのタイムラインも、
いまや多くの場面で“自動的に並び替えられている”。

過去に何を読んだか。
どこで立ち止まったか。
どんな動画を最後まで見たか。

そうした痕跡をもとに、
私たちの前には「関心がありそうなもの」が、
先回りして置かれる。

便利な仕組みだ。
自分で探しに行かなくても、
世界のほうから近づいてきてくれる。

だが、その快適さの中で、
私たちはどこまでを自分で選び、
どこからを委ねているのだろう。

「レコメンド」という仕組みは、
私たちの暮らしの“前提”そのものを、
少しずつ書き換えているのかもしれない。

その結果、
私たちは同じ出来事に触れているつもりでも、
実はまったく違う前提の上に立っていることがある。

何が話題になっているのか。
どんな論点が中心なのか。
どこまでが常識とされているのか。

それらは、もはや一枚の紙にまとめられるものではない。
人ごとに、静かに分岐している。

誰かと議論が噛み合わないとき、
そこには知識の差だけではなく、
“見てきた世界”の差が横たわっているのかもしれない。

娯楽や日常の映像体験も、
同じ仕組みの中にある

うちの家には、テレビのアンテナがない。
子ども向けの番組は、ずっとYouTubeで流している。

それで困ったことは、ほとんどない。
エンタメは、すでにスマートフォンの中に詰まっている。

テレビを見ない家庭も、少しずつ増えている。
特に娯楽の多くは、
いつの間にか“個人の画面”に収まるようになっている。

もし友人に、
「そのおすすめ欄、見せて」と頼んだらどうだろう。
少し戸惑われるかもしれない。
それくらい、私たちの情報環境は私的なものになった。

かつては、
こうした私的な画面とは違う形で、
同じ映像を眺める時間がもっと多かった。

テレビCMのような、
自分の関心とは無関係な映像は、
昔はごく自然に家庭の中へ入り込んできた。

それらは煩わしい半面、
知らない誰かの暮らしや価値観を、
否応なく想像させる装置でもあった。

そして、ここが重要なのだと思う。

前提がずれることよりも、
その前提が、横にいる友達や同僚から、
ほとんど見えなくなっていること。

同じ空間にいても、
私たちはそれぞれ別の世界を背負っている。
そのことに気づく機会自体が、
以前より少なくなっているのかもしれない。

この変化は、
もう私たちの世代だけの話ではない

今この環境の中で育っている子どもたちは、
生まれたときから、
“自分向けに整えられた世界”に囲まれている。

テレビの前に集まる時間よりも、
それぞれの画面に向き合う時間のほうが長い世代。

彼らの中には、
どんな風景が積み重なっていくのだろうか。

他人の前提が見えにくい社会で、
それでもなお、
誰かと同じ景色を共有する感覚は残っていくのだろうか。

私たちはいま、
違う世界を見ながら、
同じ社会を歩いている。

その次の世代は、
この仕組みの中で、
どんな世界を自分の内側につくっていくのだろう。