この5年ほどで、「訪れる」という行為は、
「本当に必要か?」と問われるようになった。
いつしか、
人が集まり議論が交わされていた会議室や、
デスクとPCが並ぶオフィスの風景は、
それぞれが画面に向かう、
一人分の場所へと置き換わっていった。
これは一部の分野に限った話かもしれない。
だが、「訪れる」という行為が、
行かなくても成り立つようになった――
そう感じさせる場面は、確かに増えている。
だからこそ、考えてしまうことがある。
「訪れる」とは、
何だったのか。
そう考えていると、
あるオンライン説明会の光景が浮かんだ。
とある企業での、顔の見えない説明会
あれは、50人だったか、100人だったか。
オンラインの説明会を実施したことがある。
開始時間が近づくにつれて、
参加者がぞろぞろと入室してくる。
画面に顔は映らず、
アイコンだけが並んでいく。
「よろしくお願いします」と言っても、
返ってくる声はない。
返事を待つような間を、
無意味だと分かりながら、つい置いてしまう。
説明が始まり、こちらは一方的に話す。
区切りで「ここまでご質問はありませんか」と聞いてみるが、
沈黙のままだった。
中断もなく、淡々と進んでいく。
用意した原稿をただ読み終え、
気づけば説明会は終わっていた。
ちゃんと伝わったのかは分からない。
仕事自体は、終わっている。
大きな会議室に人を集めるよりも効率的で、
一人ずつ説明するよりも早い。
そういう場面なのだと思う。
だが、あの見えない圧迫感には、いまも慣れない。
相手に何かを伝えるとき、
その場の空気を読みながら、
話す速度や言葉を変えていく。
そういう調整が、
この場には一切なかった。
ただ、終わる。
これはコミュニケーションとは少し違う。
いや、正確には――
同じ場を共有していないことの違和感に近い。
作業か、それとも朗読か。
そんなものに感じていた。
「訪れる」に含まれていたものは、何だったのだろう
効率的なのは、たしかだ。
このやり方が間違っているとも思わない。
それでも、説明会が終わったあと、
画面を閉じながら、
どこか取り残されたような感覚が残った。
あの違和感は、たぶん、
「始まる前の時間」が消えていたことにある。
会議室で説明会をしていた頃は、
そこへ向かうまでの時間があった。
電車に乗りながら資料を眺め、
少し早めに着いて、
近くのカフェでスライドを開き直す。
担当者と名刺を交換し、
プロジェクターの接続を確認し、
会場の空気を吸いながら、
頭の中を仕事に切り替えていく。
その一時間は、ただの移動ではなく、
同じ場に入っていくための時間でもあった。
それがオンラインだと、
直前まで別の作業をしていたり、
つい席を立とうかと思うくらいの感覚のまま、
画面を開けば始まってしまう。
それは、終わったあとの時間も同じだ。
オンラインの説明会は、
画面を閉じた瞬間に終わる。
次の予定を詰め込み、
そのまま別の作業に戻っていける。
会議室での説明会なら、
そうはいかなかった。
エレベーターに乗り、
駅まで歩きながら、
「あそこは伝わっただろうか」と考える。
頭の中でひとり反省会が始まり、
次はこうしようと組み立て直す。
そうしてようやく、
その場で共有していた時間が、
あとから言葉になる。
こうして振り返ると、
「訪れる」という行為は、
ただ現地に行くことではなかったのかもしれない。
そのあとに残る時間
「訪れる」ことがオンラインに置き換わっていくのは、
時代や効率を考えれば、自然な流れなのだと思う。
それでも、
入室と退出のスイッチが、
そのまま気持ちのオンオフになってしまったようで、
ときどき、妙な軽さを感じることがある。
会議室へ向かう途中の時間や、
終わったあとに駅まで考え事をしていた帰り道。
ああいう時間は、
人と向き合う準備をしていた時間でもあったのではないか。


