レジで「会員登録はお済みですか」と聞かれる。「お済みでなければこちらからお願いします」と、QRコードを示される。
スマートフォンで読み取ると登録画面が開き、そのまま名前とメールアドレスを入力している。店員から操作の説明はなかったが、それでも手順に迷うことはない。
この一連の動作は、身体に染みついている。QRコードは、いつからか、説明がなくても動作を起こす合図になっている。
「これね」と分かってしまうかたち
思い返してみると、QRコードの使い方を人とのやり取りの中で話した記憶はほとんどない。誰からも教わったことはないし、何かで学んだ覚えもない。
家族に「再配達の依頼をしておいて」と不在票を渡しても、友達に「このお店、Instagramもやっているみたい」とショップカードを差し出しても、問い返されることはない。どちらも当たり前のようにスマートフォンを取り出す。
専用のアプリを起動するわけでもない。純正のカメラを向け、画角に収まった瞬間、それが情報への入口であると分かっている。
そこに書かれているのは操作方法ではなく、あのドットのかたちだけだ。それでも迷うことはない。「これね」と身体が先に理解している。
QRコードは、
言葉を介さず通じる合図になった
言葉がいらないのは、読み取る側の理解に委ねられていないからだ。この“流れを止めない”という条件は、もともと別の場所で生まれたものだった。
自動車の製造現場では、部品が次々と流れてくる。ひとつの工程が止まれば、全体の流れが止まる。そんな中でも、扱う部品の種類は増え続け、管理する情報量も膨大になっていった。
従来の管理手段として使われていたバーコードでは、必要な情報を収めきれなくなっていく。
情報量が増えるたびに、複数のコードを読み取る必要が生まれ、作業の流れはそこで分断される。読み取りのために立ち止まることもできず、向きを合わせる時間もない。流れを止めずに、より多くの情報を一度で読み取る必要があった。
1994年、この課題に対する解として開発されたのがQRコードだ。
自動車部品メーカーであるデンソーの開発チーム(現在のデンソーウェーブ)によって生み出された。
求められていたのは、より多くの情報を一度で読み取れることだけではない。流れを止めず、向きを問わず、多少の汚れがあっても読み取れること。生産ラインの中で成立するための条件が、そのままQRコードの構造になっている。
どこにも閉じなかったQRコード
開発元であるデンソーウェーブは特許を保有していたが、その権利を行使しなかった。誰かの許可を得なくても使うことができ、どこでも同じかたちで読み取ることができるという前提が、このかたちを特別なものにしなかった。
生産ラインの中で求められた“条件”は、そのまま場所を選ばない構造になっていった。特定の企業の中に囲い込まれなかったことは、特定の使い方を覚える必要がないということでもある。
国や言語が違っても、求められる動作は変わらない。カメラを向けるだけで情報にたどり着くという手順が、世界中で共有されている。
そして、そのかたちは、実用のための記号にとどまらなかった。
ブランドや広告、アートの中で、意図的に配置される対象にもなっている。情報へ接続するための入口であると同時に、現代の情報伝達を象徴するアイコンとして扱われ始めた。
それはもう、情報伝達の手段という役割だけではない。文化の側に置かれたかたちとして、私たちの視界に現れている。
その動作は、
もう身体が覚えている
レジでQRコードを示されると、反射的にスマートフォンを開いている。誰に教わったわけでもないこの動作は、当たり前に身体が覚えている。
特定の場所に閉じず、あらゆる日常に溶け込んだそのかたちは、情報を伝えるための道具であることをやめ、私たちの「動作」そのものになった。
レジの支払いで。
再配達の依頼で。
SNSの交換で。
私たちの日常において、QRコードは、情報を読み取るための道具ではなく、いつの間にか世界で共有された、新しい「身体感覚」として定着している。


