開始時間が近づくと、画面にアイコンが増えていく。五十だったか、百だったか。そのくらいの人数が参加する、説明会を担当したことがある。
顔はない。声もない。「よろしくお願いします」と挨拶をして、返事を待つような間を置いてみる。少しだけ期待したが、返ってくる声はなかった。
説明会が始まり、こちらは話す。区切りで「ここまでご質問はありませんか」と聞いてみるが、不思議な間がポツンと空いただけだった。
用意した原稿を読み終え、気づけば説明会は終わっていた。伝わったのかは分からない。仕事としては、終わっている。
あの見えない圧迫感には、いまも慣れない。これはコミュニケーションとは少し違う。同じ場を共有していないことの違和感、とでも言えばいいのか。
かつては、会議室に向かうまでの時間があった。
電車の中で資料を眺め、少し早く着いたカフェでスライドを開き直す。名刺を交換し、プロジェクターの接続を確認し、会場の空気を吸いながら頭を仕事に切り替えていく。
あの一時間は、ただの移動ではなかった。同じ場に入っていくための準備の時間だったと思う。
オンラインだと、直前まで別の作業をしていたまま、画面を開けばもう始まっている。終わりも同じだ。画面を閉じた瞬間に、すっと消えてしまう。
会議室での説明会なら、そうはいかなかった。エレベーターに乗り、駅まで歩きながら、「あそこは伝わっただろうか」と考える。そうしてようやく、その場で共有していた時間が、あとから言葉になっていく。
この五年ほどで、「訪れる」という行為は問い直されるようになった。行かなくても成り立つ場面が増えた。それは時代として自然な流れなのだと思う。
それでも、入室と退出のクリックが気持ちのオンオフとそのまま重なってしまったようで、ときどき妙な軽さを覚えてしまう。議事録は残っているが、多分、記憶には残らない気がする。
会議室へ向かう途中の時間。終わったあと、駅まで考え事をしていた帰り道。ああいう時間は、人と向き合う準備をしていた時間でもあったのではないか。
「訪れる」という行為は、ただ現地に行くことではなかったのかもしれない。