電車のなかで、隣に立つ会社員の画面が一瞬見えてしまう。
何が流れているのかはわからなかった。ただ、自分の画面とはまったく違う色をしていた、という感覚は残っている。
同じ時間を、同じ場所で生きている。でも見えているものは、たぶんずいぶん遠い。
スマホを開くと、いつも「私向け」に整えられた世界がある。不便だと思ったことはほとんどない。むしろ助かっている。ただ、その快適さのなかに、何かが削られていく感触がある。
これを単なる趣味の違いとして片付けるのは、少し違うかもしれない。
アルゴリズムは過去の履歴を手がかりに、立ち止まりそうなものを先回りして差し出してくる。その精度は年々上がっていて、気づかないうちに、自分の輪郭のようなものがなぞられていく。
かつてテレビのCMは、関心の外側にあるものを無差別に流し込んできた。あれは煩わしかった。それでも今になって思うのは、あの煩わしさには、知らない誰かの前提が入り込んでくる余地があったということだ。
その前提は、いまほとんど見えなくなっている。
うちにはテレビのアンテナがない。息子はYouTubeを見て育っている。まだ小さいのに、CMはスキップするものだと自然に覚えている。誰かがそう教えたわけではない。ただ、そういう環境に生まれた。
妻が、あるYouTuberの炎上について話してくれたことがある。ネットでの論争も交えながら、経緯を語ってくれたのだが、登場人物が一人も浮かばなかった。
言葉は聞こえているのに、話の輪郭がつかめないまま、頭をただ通過していく。同じ屋根の下にいるのに、見ているものは重なっていないのかもしれない。
息子が昼寝に入り、部屋が静かになる。手持ち無沙汰になって、またスマホを開く。画面は何事もなかったように続いている。
息子の画面には、これから彼に合ったものが並んでいくのだろう。その外側にあるものに触れる機会は、きっと以前より少ない。
世界を探しに行かなくても、世界のほうから寄ってくる。そういう環境のなかで、彼の日々は積み重なっていく。
困ったことは、特にない。最適化されたこの時間を、進歩と呼ぶこともできる。それでも、ときどき何かが抜け落ちてしまっているような感覚が残る。
違う景色を見たまま、同じ場所を歩いている。
そのことの意味に触れないまま、今日もまた、画面を開いて、内に閉じていく。