sonohitoFragments & Musings

検索という旅は終わったのか

調べものをしようと、Safariを開く。

キーワードを打ったら、ほしかった答えは画面の一番上にすでに置かれていた。AIによる要約。数行で整理された、過不足のない説明。

最初のころは、なんとなく信用できずにスルーしていた。

検索結果のほうを開いて、自分の目で確かめたかった。でも見慣れてくるうちに、いつの間にか「これで十分じゃん」と思うようになっていた。

以前は、検索結果のページをいくつも開いて、情報を探しながらインターネットを巡っていた。だが最近、そんなことをほとんどしていない。


小学生のころ、辞書を引くのが好きだった。意味のわからない単語を調べると、隣り合う言葉が自然に目に入ってくる。ついそっちも読んでしまって、もともと何を調べていたのか忘れることもあった。

検索にも、あれと似た時間があった気がする。

カメラのレビューを調べていたはずなのに、気づけばレンズの歴史の記事を読んでいる。必要な答えに辿り着くまでに、いくつものページを行き来する時間があった。

ときには、探していた答えより先に、思いがけない情報に出会うこともある。

あれは確かに、インターネットを「探索する」体験だった。


いまは違う。

答えは最初からそこに提示される。ページを巡る過程も、リンクを辿る時間もなく、要点だけが整理されて返ってくる。

かつての検索では、数十、数百の情報の中から、自分で手がかりを拾い集めていた。ページを行き来しながら、ばらばらの情報が交差する点を探していた。そうして、答えは自分の中で少しずつ形になっていった。

いまは、線を辿る前に、点だけが見つかる。

探索に時間をかけて辿り着く体験は、もう求められていないのかもしれない。


そういえば、Safariという名前は、本来は未知の場所を巡る「旅」を意味する言葉だ。

思い返せば、その前に使っていたInternet Explorerもそうだった。「探検する者」。ブラウザにはずっと、旅や探索の名前がつけられてきた。

ページを行き来し、関係のない情報に触れ、ようやく辿り着いた答えには、小さな達成感があった。あの感覚は、確かに旅に近かったのかもしれない。

しかしいま、Safariを開いても、どこにも移動しないまま答えが返ってくる。

旅の名前を持ったブラウザで、私たちはもうどこへも出かけていない。

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