妻のスマートフォンを買い替えた。
もうFaceIDが機能しないくらいに使い込んでいて、文句を言いながらも「機種変更するのも面倒」という具合だったから、私が半ば強引にApple Storeで最新機種を予約した。
ストレージ選択の画面に移り、「いまストレージいくつ使ってるんだっけ」と妻に聞いてみる。
iCloudの容量、800GB。ローカルにも展開してみると、1.5TBに迫っていた。写真や動画の容量が、そのほとんどを占めている。
こんなに写真、見返すことあるだろうか。
妻のカメラロールには、何年も前の日々がそのまま残っている。
子供がまだ歩けなかった頃の動画も、去年の旅行の写真も、同じ画面の中に並んでいる。iCloudの2TBプランを、ずっと払い続けていた。
見返しているところを見たことがあるかと言えば、正直そう多くはない。それでも妻にとっては、いつも手元にあって、いつでも見返せる、ということ自体に価値があるらしい。
私は違う。
撮るのはほとんど仕事の写真で、作業ログのスクリーンショットや、出先で食べた料理なんかが大半を占める。気が向いたときにまとめて削除してしまうのも、だいたいその類だ。
子供の写真や、たまの旅行で撮ったものは残してあるけれど、撮る枚数自体がそもそも少ない。
同じ家にいるのに、記憶の置き方は違う。
ただ、ひとつだけ共通していることがある。撮ったものを、積極的には消さない、ということだ。
妻は意識的に残している。私は意識的に消しているつもりでも、残すべきものは残している。やり方は違っても、何かを手放しているわけではない。
日常。食事。子供。メモ。スクリーンショット。
撮る理由はばらばらで、撮る量にも差がある。それでも「消さない」という一点では、誰もが似たようなことをしているのかもしれない。
スマートフォンは、写真を撮る装置というより、記憶を保存する装置になっている。気づけば、そういう前提で使っている。
写真が増えるほど、見返す機会はむしろ減っていく。何千枚、何万枚と溜まっていく中で、人が本当に開き直すのは、ほんの一部だけかもしれない。
それでも、撮ることはやめない。消すこともしない。
写真は、記録ではなく、安心のためのデータなのかもしれない。
消していないという安心。残っているという安心。実際に見返すかどうかよりも、残っていること自体に意味がある。
妻にとっての価値は、たぶんそこにある。いつでも見返せる、という状態が成立していること。実際に開くかどうかは、その次の話だ。
私が消しているのも、たぶん同じ構造の裏返しなのだと思う。残しておく必要のないものを手放すことで、残っているものが「ちゃんと残っている」という感覚を保っている。
残すにしても、消すにしても、扱っているのは記憶そのものではなく、記憶が「ある」という感覚のほうなのかもしれない。
ストレージは増え続ける。クラウドも容量を拡張し続ける。けれど、人間が思い出せる量は、たぶん増えていない。
自宅にNASでも組めばコストは下げられるはずだと、何度か考えた。2TBほどのストレージを揃えるのは、いまは少し高い。手をつけられないまま、月々の支払いだけが続いている。
まだ人生の折り返しにも来ていないのに、気づけば2TB近い記憶を、家の外に預けている。
写真。動画。スクリーンショット。たぶんこれからも、変わらず残していくのだろう。消すものは消し、残すものは残しながら。
ふと思う。ひとりの人生の記録は、本当は何KBくらいなんだろう。